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2011年2月21日 (月)

教師も自分で考える癖をつける(2001年ごろの記事)

3回続けてやりたくないやりたくないと書きまくりましたが、

一番の理由は、例として挙げられたものに振り回されてる教師側に何とも言えない不満を感じていることです。

 教育界には、向山式やら、酒井式やら、水道方式やら法則化を目指したものがたくさんあります。

 これらを開発してきた人々に私は尊敬の念を抱くわけですが、

これらをそのまままねっこしてるだけの教師に対して不満を感じるのです。

 転勤した学校の壁に絵が貼ってありました。

 一目見て酒井式のものと分かりました。

本に載ってた教材そのままだったので…

 確かに絵としては上手ですが、私にはその子の絵とは見えず、酒井式の絵としか感じられず、何とも言えない感情を持った記憶があります。

 その後、その子たちがどうなっていったかといえば、その1年生のときの絵が一番上手って感じの状態であまり変化を感じることはありませんでした。

 向山式で5色百人一首という教材が開発されてます。

よくできていると思います。

 けど、これも、それによりかかってそれ以上考えを発展させない人たちに、がっかり感を感じます。

 競技かるたとしての百人一首の楽しみ方をもっと他に考えようとはできないのでしょうか。

 歌を春夏秋冬で分ける。

「むすめふさほせ」等一枚札から覚えさせる。

抒情詩は理解しづらいから、情景詩からやる。

下の句の始まりが「ひと」と「み」のものでやる。

(「ひと」と「み」から始まる歌はとても多く、私は瞳戦と名づけてやってますが)など、

工夫する余地はまだまだたくさんあると思います。


 総合学習で子供たちに「自ら考えて、自ら解決」と言ってる側がマニュアル化しているんでは情けないです。

 いろんな実践が行われていくことを私は切に望みます。

 
 今回のまとめ

 「先生もちゃんと頭使おうね」です。

交際理解学習をやりたくない訳(2001年ごろの記事)

国際理解学習を取り上げたくない理由は

 「日本のことをほとんど知らないのに外国の学習をするのは難しい」

 「宗教の学習が必要になってくる」

という認識が自分にあることです。

 日本語も満足に扱えないのに英語学習をして国際理解です。

というのにはとても抵抗があります。

言葉を知ることが理解につながるとは思えないからです。

(もちろん、知っていればコミュニケーションが取りやすいとは思いますが)

 人間として向き合って、相手を理解するのが必要なわけなので、国を理解するのではなく、その人を理解する必要があるわけです。

 だったら、わざわざ外国の人でなくても日本人でいいんじゃないかと思うんですが…

 国を理解するのであれば、日本史と世界史を今の高校生以上のレベルで学習していかなければならないことになるでしょう。

 けど、そんなことはできない。

 国際理解といいつつ、言語は英語がほとんどだというところも気になります。

 どうしても、中学校の英語の先取り学習って感じがして仕方がないですね。

 そして、国として理解するためには、その国の歴史が関係してくるわけで、外国には特にそのとき「宗教」というのが、重要な位置を占めてくると思うのです。

 しかし、この「宗教」というものをしっかり教えられる人は大変少ないと思います。

 が、これをこなさない限り、本当の国民性の理解にはつながらないと思います。

 このように、国際理解学習を本当にやろうとすると、その学習内容はとてつもなくレベルの高いものになり、とてもではないが学校でできるような、総合学習の時間だけでできるようなものにはなりません。

 これは、前に挙げた「環境問題」「福祉問題」にも共通していえることです。

 モデルパターンとして大きくこの3つがとりあげられていますが、実際には入口も入口、ほとんど意味を持たない内容のことしかできないのが実情であると考えます。

 こんなことに、時間を取るよりも他になることがあるのではないのかというのが、やりたくない本当の理由です。

 
 今回のまとめ

 「勉強は奥が深くてちょっとやそっとじゃモノにはならない」です。

2011年2月11日 (金)

福祉学習をやりたくない訳(2001年ごろの記事)

福祉学習を取り上げたくない一番の理由は

 「一人前になってない人間がやるボランティアはただの自己満足で終わる」

という認識が自分にあることです。

 まずは、自己の確立をすることが大事と考えるわけです。

 一人前でない人間からのボランティアは、

 「小さな親切大きな御世話」的なものになりがちです。

 実際のところ、福祉学習として、いろいろな施設に行ってボランティアの体験学習というのを行う場合がありますが、その多くは施設側に多大な心身的な心配をかけているのが現状だと思います。

 けれども、やった人たちは、

 「わたしはとてもいいことをした」

 「わたしはとてもよい体験をした」

となるわけですが、ボランティアを受ける人たちからすれば、

 「あなたたちを気分良くするために障害者やってるわけじゃないんだけど…」

と言いたくなる人も中にはいらっしゃいます。

 バリアフリーを目指さないといけない福祉学習ですが、今のボランティアの考えでは、する側される側に分かれてしまい、バリアフリーを実現することはなかなか困難だと思います。

 自立する学習を行っていないのに、個人個人という考えは出にくいだろうというわけです。

 やるなら、「ちょぼら」規模だと思います。

 で、「ちょぼら」規模のことなら、今までの道徳や学級指導でできることで、取り立てて総合学習で福祉学習をする必要はないのではないだろうかというのが私の考えです。

 今回のまとめ

 「ボランティアは一人前になってから」

です。

環境問題をやりたくない訳(2001年ごろの記事)

環境問題を取り上げたくない一番の理由は

 「リサイクルってとってもいいこと」

という認識が一般社会にあることです。

 資源を大事にする方法は、よく言われるのに、「3つのR」と言われるものがあります。

「リデュース」「リユース」「リサイクル」の3つのことです。

「リデュース」は消費自体を少なくすること。

「リユース」は給食の牛乳ビンのように何度も使用すること。

「リサイクル」は、資源化して新製品を作り出すこと。

です。

資源確保の観点からすれば、リサイクルは最後の手段なのです。

なのに、それが一番であるかのように扱われていることがとても心に引っかかります。

たとえば、紙のリサイクル。

普通に考えてこれっておかしいと思いますよね。

木という再生可能な資源を助けるために、再生不可能な化石燃料を使って再生紙を作っているなんて。

日本の森林面積は増加している現状で、林業に従事する人はどんどん減っている。

もし、きちんとした林業を日本の産業として認めて保護していくことをしていれば、紙の再生なんてことをしなくても良かっただろうと自分は考えてしまいます。

現在は、外国の安い材木に頼って紙を作ったりするものだから、外国の原生林の減少が問題になってしまう。

安さを追求して経営している会社が、人の目をごまかすように「うちはリサイクルしている会社です」とか言ってる感じがして嫌です。

「リサイクルって言っておけば何してもいいや」という感じの、薄利多売、リユースしづらい製品を大量に作っている会社。

「リサイクル会社にごみを回して、焼却炉で燃やすごみを減らしたように見せかける行政」

本当に資源の大切さを訴えているとはとても感じられないのです。

こんな風に見ていると、たぶん授業しても、批判だけで解決のない不毛なものになっていってしまうでしょう。

 今回のまとめ

 「環境問題を取り上げるなら市レベル以上で学習しなくちゃ意味ない」

です。

2011年2月 1日 (火)

茶碗の脳味噌とどんぶりの脳味噌(2001年ごろの記事)

今回は総合学習について考えてみたいと思います。

 私は、総合学習とは、

 「脳味噌の可動範囲を広げるもの」

 と考えています。

 基礎学力とは違うのかという声が聞こえてきそうですが、私は違うと考えています。

 よく言われる基礎学力とは読み書きそろばんのことを指していることが一般的と思います。

 しかし、脳味噌の可動範囲とはそれ以前の話です。

 コンピュータで例えれば、基礎学力とはソフトのことで、脳味噌の可動範囲とは容量に当たります。

 容量も無いのにソフトをインストールしていっても、すぐ容量不足になってしまいます。

 それを、防ぐために容量を多くするわけです。

 学習に関しても同じことが言えると思います。

 基礎基本の徹底とか言われていますが、脳味噌の容量の少ない人はそこまでで、そこから先はないと思います。

 読み書きができても国語の苦手な人はいます。

計算できても数学のできない人はたくさんいます。

 それはなぜか?

 脳の活用がなされていないから、と私は考えるのです。

 で、どんなときに脳が活発に活動するのかということが総合学習での肝になってくると思うわけです。

 現在、総合学習というと、「環境」「福祉」「国際交流」とかが話題となっていますが、私はこれらで脳の活発化を進めていく気はありません。

 その理由は、次からの話でしますが、私が考えている脳の活発化の手は「ゲーム(遊び)」です。

 人間、損得勘定が入ってくると、真剣になります。

この真剣さが脳の活性化につながると考えます。

 そして、その損得が一番出るのが「ゲーム(遊び)」と思うわけです。

 昔と今の子供の生活で一番変わったのが、この「ゲーム(遊び)」だと思います。

 この「ゲーム(遊び)」を真剣にすることが、脳の活性化に繋がり、脳の可動範囲を広げることにつながると思います。

 では、具体的にどんなゲームがよいのか?

 それは、実力通りの結果になるもの、運の要素の極力少ないものです。

 例をあげるとすれば、それは「囲碁」「将棋」です。

 どちらも、双方の情報がすべて公開されながら、進められていくゲームです。

運の要素はほとんど無く、結果は実力通りになります。

 この二つのゲームについてもページを改めて書きたいと思います。

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追記(2011)

完全情報公開型は確かにいいですが、「実力通り」が逆効果になる要素も含んでいることも注視しないといけないと思うようになってきました。

最初は、情報が少ないが、ゲームが進むにつれて、情報が増えていくタイプのゲームの効能も高いと思います。

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 今回のまとめ

 「総合学習とは脳味噌学習である」

です。

学習習慣について(2001年ごろの記事)

今回は学習の習慣について考えてみたいと思います。

 よく、保護者会で私が言われるのに

 「宿題を出してください。勉強の習慣をつけたいので。」

 というものがあります。

 私は、宿題をほとんど出しません。

というか、出せないといったほうが正しいでしょうか。

 子供の学力は、ピンきりなのに出される宿題はほとんど全員共通のもの。

これが納得できないんです。

 算数などまだ理解不十分の子は宿題と出しても無駄になりますし、理解してしまった子は宿題にしてもいい問題まで終わらせてしまっている。

 なので、全員に合わせた課題を与えるなんて私には無理なので出さないのですが、これが、とっても不評らしいです。

 さて、「習慣」というものですが、辞書で調べてみると、

 「後天的に身に付けた行動方法で、比較的固定して、少ない努力で反復できるもの」

とあります。

 「比較的固定して」…学習内容はどんどん変わっていきます。

 「少ない努力で」 …簡単に覚えられるならどんなに楽か。

といわけで、習慣に当てはまるのは、あいさつとか歯磨きとかそういうものであって、学習には当てはまらないと思います。

 実際の例として、自分の場合を挙げたいと思います。

 私は今年、二学期まで勤め、その後、体調不良から休職することになりましたが、その二学期間で、図書室の本を、少ない子で三十冊、多い子で七十冊読む機会を作ってきました。

 で、三学期が終わった後、病状報告のついでに図書室に行って調べたところ、

 「全員、三学期一冊も図書室の本は借りていませんでした。」

 やれば、習慣化できるのならば、数冊は読んでるはず。

それが、ゼロ冊。

 このことからも、習慣化の難しさが分かると思います。

 学習意欲というものがない子には、こちらから強制力を持ってやらせるという情けない手段でしか対応できないのでしょうか。

 ただ、今回の結果は非常に私自身驚いていると同時に、この学校ならという気持ちがありました。

 先生のいうことをあまりにもよく聞きすぎるよいこちゃんだらけの学校だからです。

これについては、また、別の項で書きたいと思います。

 
 私、図書室の本の借り具合で、国語の意欲関心の項目をつけていたので、これだと全員「C」判定。やれやれ。

 今回のまとめ

 「勉強は習慣化できない。自分の努力なしでは学力向上はない」

です。

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